初めまして。
人と組織のスーパーサポーター佐藤 真一(さとう しんいち)です。

 

私は現在誰でもが名前を知っているような大手企業の研修講師として、
または中小企業のコンサルタントとして
職場における人間関係の問題を解決して
組織を活性化し、生産性を向上するお手伝いをしています。

 

私の経歴をざっと見ると大学を卒業して大手企業に勤務
その後、人と組織のスーパーサポーターとして華麗に転身したように見えるかもしれません。

 

しかし実はここに至るまでに数々の困難や失敗を経験してきました。

 

特に、人との接し方、職場の人間関係の改善には人一倍苦心してきたと感じています。

 

人の問題に直面するたびに悩み、答えを求めて本を読み、
セミナーに参加するなど解決方法を模索してきました。

その過程でメンターとなる人出会い、学びを実践するうちに気がついたのは
自分との付き合い方に問題があったということだったのです。

 

このことに気がつき自分との関わり方を改善したことで
私の人生が大きく変わりました。

 

私の経歴をお話することで
今までの出来事が私にどんな影響を与えそこから学んだことで私の考え方がどう変わり、
今はどんな信念を持って人や職場に向き合っているのかどんな将来を目指しているのか
を知って頂けたらと思います。


 

小学生の時に両親が離婚。
周囲の愛情を受けて育つも自己開示が苦手な少年時代。

 

今でこそ私は人とのご縁にも恵まれ、おかげさまで仕事もプライベートも
楽しく充実した日々を送っていますが、
子どもの頃は恵まれた生活をしていたわけでありませんでした。

 

物心ついた頃から両親が不仲で父のお金の問題で喧嘩が耐えない家庭だったのです。

 

ですから決して居心地のいい家庭ではなく
私は絶えず両親の顔色を伺いながら過ごしていました。

小学校1年生の時に自宅を売却することになり、
4年生の時にとうとう両親が離婚しました。

 

家庭は経済的に苦しくなりましたし、
当時は親の離婚はそんなによくあることではなかったので、
世間の目も厳しいものがありました。

 

私は自分の心の中を人に見せないようにすることで自分を守っていたのです。


 

ただ、学校の勉強はよくできましたし、友達もいました。

 

一番ありがたかったのは、母方の祖父母、伯父叔母らがとてもよくしてくれたことです。

 

彼らが私に愛情をかけてくれたので横道に逸れずにすみました。

 

成績トップから転落した高校時代

私は中学校まではトップの成績でしたので
千葉県でも一二を争う進学校の高校に進みました。

 

その学校は県内の中学校から優秀な生徒が集まってきています。

 

今までトップだった私はいきなり底辺に落ち込んでしまいました。

 

中学校では体育だけ5が取れなかったのに高校に入ったら体育でしか5が取れない・・・

そんな状況で世界がまるっきり変わったのです。

 

それでも大学はなんとかストレートで国立大学に滑り込むことができたのでホッとしました。

 

浪人をして母に学費の負担をかけたくなかったからです。

 

「大学時代はずいぶん遊ばれたのですね」
と言われた採用面接

 

晴れて大学生になった私ですが、調布にある大学に千葉の自宅から通うと片道2時間かかります。

そうなると必然的に朝の講義は自主休講が発生します。

 

お昼頃に大学について学食でランチを食べ、その後向かう先は教室ではなくパチンコ屋。

 

夕方になると体育館に行き、部活動(バトミントン)をする、
それが終わると飲んで終電で帰るか、先輩の家に転がり込んで泊めてもらう・・・


 

母が苦労して大学に行かせてくれているのに
まともに授業を受けていないことに多少の後ろめたさを感じながらも
気楽な大学生活を送っていたのです。

このように大学の講義よりも社会勉強(?)に熱心に取り組んでいましたが
4年生となり就職活動が始まりました。

 

私は大学の求人情報を見てソニーに応募することにしました。

 

私の成績ではとても大手企業に採用されるとは思えません。

 

でも、「企業に成績表は行かない」という情報もあったので
成績に関係なく面接で評価してもらえるなら、
“私にもチャンスはある”と思ったのです。


 

ところが採用面接当日、会場に行きますと、
“成績が企業に行かないのでは”という私の願いも虚しく、
目の前で面接官に成績表を広げられてしまったのです。

 

“可”ばかりが並ぶ成績表を見た面接官から開口一番
「佐藤さん、ずいぶん大学時代は遊ばれたのですね」
と言われ私は冷や汗が滲み出るのを感じました。

 

勉強のことは主張できないので、
バトミントン部で主将をしたことなどを話して
面接を終えたのです。


とても採用されたとは思えずその日は暗澹たる気持ちで家路につきました。

 

しばらくしてソニーから結果通知が届き、
恐る恐る開けてみると、「採用」の文字が目に飛び込んできたのです。

採用?
私は一瞬訳が分からずぽかんとしました。

気を落ち着けてもう一度通知を見直しました。
やはり「採用」と書いてあります。

 

おお、やったー!採用された!

 

私は通知を握りしめ嬉しさのあまり天にも昇る気持ちでした。

 

日頃は信仰心のない私ではありましたがこの時ばかりは神様にお礼を言いました。

 



当時のソニーは成績だけでなく幅広い人材を採用する傾向があったので
採用してもらうことができたのだと思います。

 

今の時代だったらとても採用されていなかったでしょう。

 

「エライところに入っちゃったな」
優秀な人材に囲まれての技術者時代

ソニーに入社すると
周りは優秀な人ばかりです。

たまたま試験に受かって入社できた私は
「これはエライところに入っちゃたな」
と痛感することになりました。



会社に入ってからもそんなに意識は高くなく
学生の延長みたいな気分でしばらくいましたが、

 

だんだん周りがすごいことがわかってきて、
「これはやばいな」と感じるようになってきたのです。

 

エンジニアとして生産技術分野で
研究開発に8年ほど従事し、
30歳になりある程度仕事がこなれてきた頃、

 

技術者として専門性を追求するのか
それとも技術の現場をマネジメントする管理職になるのか・・・

 

自分がこれからどういうキャリアを歩むべきか
考え始めました。


「お前、今食ったよな」労働組合執行部へ 

 

管理職の道に進もうかなと思っていた時に、ある先輩から
「仕事8割、残りの2割でマネジメントが学べる仕事があるけど興味ある?」
と声をかけられたのです。

これは渡に船だと思い、「話を聞かせて下さい」と言うと
先輩と食事に行くことになったのです。

 

会食当日、美味しそうな料理が運ばれてきました。

 

空腹だった私が思わず一口パクッと食べた瞬間

 

「お前、今食ったよな」と先輩が言うのです。
「じゃぁ、話そうか」


 

私は「No」と言えない状況になったことに気がついて思わず箸を止めました。

 

そしておもむろに先輩の口から仕事の内容が明かされました。

その仕事とは労働組合の仕事のことでした。

 

労働組合の仕事は全然私の専門分野ではなくて今の仕事とは全くの対局の人事労務の仕事です。

 

労働組合の仕事をすることはこれまでまったく自分の選択肢に入っていなかったのです。

 

思いがけない話に私は戸惑いました。


 

ですがせっかく先輩に声をかけてもらったし、今の自分の状況を打破するために
新しいことにチャレンジしてみようと思い組合の仕事を受けることにしたのです。

 

「もう絶対にこの仕事は降りよう」
二足のわらじで股裂状態

 

労働組合の仕事は、右も左もわからずついていくのがやっとの状態です。

 

三六協定(時間外、休日労働に関する協定)も執行部に入って初めて意識したくらいです。

 

しかも初めは職場の仕事と組合の仕事の兼任です。

 

今までは100%職場の仕事に注力できていましたが今度は6対4とか7対3くらいの割合で
職場の仕事をする時間が少なくなります。

 

その状態でエンジニアの仕事も組合の仕事もちゃんとやらないといけません。

二足のわらじを履くことになりかなりハードな日々を送ることになったのです。

 

さらに、労働組合の執行部に入って
これまでの世界とは違う世界に
身を置くことになり
大きなカルチャーショックがありました。


 

さらに、労働組合の執行部に入って
これまでの世界とは違う世界に
身を置くことになり
大きなカルチャーショックがありました。

 

まず、組合にはバリバリの営業部隊など
いろんな部署から人が集まってきています。

 

これまで自分の部署にいただけでは
知り合うこともなかった部署の人たちと
一緒に仕事をする訳です。

 

同じ会社の社員ながら視点や価値観、論理が
まったく違うことに驚きました。

 

生産技術のエンジニアは地味な
縁の下の力持ち的な
仕事ですが、
それでも周りの人は優秀な人ばかりで
すごい世界だと感じていました。

しかし、労働組合の執行部に入って
会社全体を見ると今まで自分がいた世界が
とても小さい世界だったことに気づいたのです。

 

会社には色々な仕事があって
それらがどう組み合わさって動いているか

会社全体を俯瞰してみることができるようになったのです。

 

これは大きな発見でした。

 

そうこうするうちに二足のわらじのハードな生活も2年が経ちました。


 

ここまで頑張ったのでもう組合の仕事は「絶対に降りよう」と心に決めました。

 

委員長にその相談をしに行くと、

 

「いや、佐藤くんね、書記次長というのがあってね、
会社の複数の組合の人たちをまとめていく役割だし、会社との事務折衝もあるし
佐藤くんの世界が広がるからいいと思うけどやってみない?」

 

と今度は労働組合連合体の書記次長をやらないかと声をかけて頂いたのです。

その委員長の言葉に押されて
3年目からは書記次長となり
労働組合の仕事に専従することになりました。

 

その後、書記長を経て
1万人の労働組合のトップである委員長に就任したのです。


「俺はそのつもりでお前を選んだ」
スイッチが入った前委員長からの言葉〜

私は委員長になる時
“自分が委員長になっていいのかな”
という思いを抱えていました。

 

その時に前任の委員長から
「組織のトップの一番大事な仕事ってなんだかわかるか?」
と問われたのです。





 

私は「組織全体をまとめてより良い方向に向かってことだと思います」
と答えました。

 

すると委員長は
「もちろん、それも大事だけどもっと大事な仕事があるよ。
なんだかわかるか?」
とさらに聞かれたのです。

 

私はこの問いに答えることができず
「なんでしょうか?」と聞くと、

「トップになった瞬間に後釜を探してそいつを育成することだよ。
その時に一つ条件がある。

それは
自分より優秀なやつを後釜に据えること

 

そうしないと組織は発展していかないし、成長していかない。

 

おれはそういうつもりでおまえを選んだ
と言われたのです。


 

この言葉は私にとって最高の承認となり、
委員長の仕事に意欲的に取り組むスイッチが入ったのです。

 

自分の可能性を人に背中を押されて
放り込まれたところから切り開いていく

私は先頭で旗を振って組織をリードするタイプではなく、
みんなの意見を合議し、まとめて納得を得た上で
実行に移すやり方で組合を運営しました。

 

5人の様々なタイプの副委員長と意見がぶっつかりあうこともありながら、
チームや組織はこういうことで動いていく
というのを肌で感じたのです。

 

さらに、
組合の存在意義は、単なる条件闘争で会社と敵対するのではなく
会社をいかによくしていくか
そのために組合に入っている人たちが
いかに成長していくか
が大事だと気づきました。


 

そこで
“会社が発展して豊かになると組合員、社員の生活も豊かになる“という理念、綱領をベースにし
常にそこに立ち返るように問いを投げかけながら活動するように心がけました。

基本的には
なんのためにこれをやるのか
これにどういう意味があるのか
やり方ではなくて本来の目的は何なのか
これは組合員のためになるのか
会社のためになるのか

 

そこを会社と一緒に向き合って考える、
というスタンスで取り組んだのです。

 

会社と対等に協議をしていくためには、
社員組織の自分たちの責任を果たし、
価値を高め、会社からの信頼感を得ることが絶対条件です。
そこも大切に活動していました。


 

8年間の労働組合での活動を通して、経験したことは確実に自分の糧となっており

 

“自分たちの価値をいかに高めるか”ということを念頭に活動したことは
今のコンサルの仕事にも生きています。

 

振り返ってみると29歳の頃、労働組合執行部に入らず、
あのまま優秀な人たちの間でエンジニアを続けていたら
自分は淘汰されていたのではないかとゾッとします。

 

労働組合の仕事を受けたことが転機となり私の人生の可能性が大きく広がりました。

人の可能性を開く行動は自分で決めて一歩踏み出すとか
自分でコミットしてやることもありますが、

 

他の人に背中を押されて無理矢理
放り込まれたところから
切り開いていくこともできます。




“こうやって人の可能性は
周りの人に広げてもらったりするもの
アリなのだな“


と実感しています。

 

研究所の人事責任者として
人間関係、組織の問題に疲弊する毎日

2004年に労働組合の委員長を後任に引き継ぎました。

 

その後は職場に戻り、
人事責任者として研究所を担当することになりました。

 

主に技術系人材の採用
評価、人材育成、キャリアアドバイス、
組織運営など人事全般に携わる仕事です。



 

人事の先輩から
「人事にくるならコミュニケーションスキルを勉強してこい」
と言われたことをきっかけに産業カウンセラーの資格を取りました。

 

さらに、成長意欲の高い社員との面談では
コーチングのスキルが有効と考え、
コーチングを学び始めたのもこの頃です。

2007年からは
コーチングのファシリテーターとして
教える側になりました。

 

教え始めた当初は
きっちりタイムテーブルを作って
その通りにやろうとしていました。

 

今思えば
“うまくやって受講者から良い評価をされたい”
という思いがとても強かったのです。



ですから
セミナー中に想定外のことが起こって
タイムテーブルが崩れてしまうと
私としてはとても困るわけです。

 

顔には出しませんが、内心では
こちらの意図に沿わない発言をして
タイムテーブルを乱した受講者に
怒りを感じていました。

またロスした時間をリカバリーするために焦って取り繕うのですが
結局うまくいかず、
自分が納得できる手応えは感じられませんでした。

 

ですからセミナーをやっていても
楽しくないし、
苦痛ですらありました。



そのせいか、受講生からのフィードバックで決まる講師ランキングでは
100名のファシリテーターうち、平均点は超えても
トップ10には中々入ることができなかったのです。

 

なんとか受講者に気づきをもたらす
ファシリテーターになれないかと
もがきながら試行錯誤している時、

 

ふと
“もう予定通りに行かなくてもいいや”という気持ちが湧いてきました。

 

後から考えるとこの時、
私が「箱」(自分の価値観の枠)から解放された瞬間だったと感じています。

最低限の準備はして、セミナーが始まると
その場で何が起こっているのか、
ライブで起こっていることを大事にし、

 

そこに集中するようにすると
場の空気が良くなる手応えを
掴むことができてきました。

 

私がこだわりを吹っ切れたことで受講者の発言量が増えたのです。



 

私も楽しくなり
講師ランキングの評価も上がってトップ10入りを果たせました。

 

社内でもコーチングのスキルを活かして
現場の管理職、一般社員数百名との面談を行い
マネジメント研修のファシリテーターも
できるようになったのです。

 

しかし、その一方では人事責任者として
部下との関係や問題を抱えた職場への対応に
悩む日々が続いていました。

 

役員からは「生産性を上げろ」と言われているにもかかわらず、
人間関係のこじれ、組織の対立、いがみあいが起こって
生産性が落ちているのを目の当たりにしていたのです。



 

お互いに共通のゴールを知っているはずなのにそこに向かわないような
足の引っ張り合いが起こり、双方が疲弊していました。

 

優秀な人材が集まってきているのだから当然仕事がうまく行くはずだし、
うまくいかないとしたら技術的な課題であるべきなのに
トラブルの大きな原因は人間関係の課題だったのです。

 

組織が成長し、成果をあげる鍵を握っているのは“人”なのに

成長を阻害しているのも“人”であることに
気づき、どう解決に導いたらいいのか頭を悩ませていました。

 

私は一生懸命カウンセリングや
コーチングをして社員とコミュニケーションを取ろうとするのですが、

 

相手は問題の原因や解決策に気がつかないし
気づかないから行動することもありません。

 

その悪循環を繰り返し一向に状況が改善しないことに私はイライラしていました。


 

また、現場の管理職が人事に無理難題を言ってくることもあり、
かなりストレスを感じていたのです。

 

メンターと出会い本来の自分にもどる

そんな時にコーチング仲間から
『自分の小さな箱から脱出する方法』
(アービンジャー・インスティチュート著大和書房)
https://amzn.to/3EzUDPE

 

という本を紹介されたのです。



 

私はこの本に書かれている「箱」の概念に大きな衝撃を受けました。

 

私が悩んでいることの解決策がまさに書いてあったのです。

 

早速私は陶山 浩徳氏の「箱」セミナーに参加しました。

 

そこでまず、私自身ができる人事責任者、いい上司という
本来の自分ではない偶像を作って
そのイメージを守ろうと一生懸命演じていることに気づいたのです。

 

私はこれまで人事の責任者として、

“自分が何かまずいことをやったら
後輩たちに影響が出る
からきちんとしなくては”

 

とか、
労働組合の元委員長として
“労働組合ってそんなもんか”

 

と思われてはいけないという意識が強かったのです。

「箱」という考え方に出会って

 

いい人を演じなくていい、
自分にできないことはもちろんあるし、
それを隠して虚勢をはる必要はない

 

ということがわかったのです。

 

絶えず周りの評価を気にしていた私は
それがわかったことで力が抜け、
気持ちが楽になりました。


 

ようやく本来の自分に戻ることができたのです。

 

さらに、
コーチングスキルもカウンセリングのスキルも
スキルとしてはあるけどベースがないとダメで

「あり方」が整っていてその上に
「やり方」(スキル)を積みあげるから成り立つ
ことに気づいたのです。

 

今まで私が部下との関係がうまく行かなかったのは、私の「あり方」に問題があったのでした。

 

できる上司を演じるのをやめ
さらに私の「あり方」が定まったことで人間関係がうまく回り始めたのです。



私の「あり方」が変わったことで周りにも良い影響を与えることが
できるようになってきました。

 

その頃、アービンジャー日本代表の陶山 浩徳氏が
日本で「箱セミナー」を広めようとしていました。

 

そのためにまず10人のファシリテーターを育成すると決め、

私に変なプライドの高い大企業代表として声がかかったのです。

 

私の他には中小企業の社長、現役の内科医、
社労士、先生、暴走族あがりの社長など、
ユニークな人たちがいました。

 

私は”この人たちとだったらちょっと
面白いことができるかも”と感じチャレンジすることにしたのです。


 

「自分に起きた変化を多くの人にも体感してもらいたい」
独立を考え始める

 

話は少し前後しますが、私は「箱」と出会う少し前に

 

同じくコーチングの仲間からの紹介で
『ソース(source)』マイク・マクナス著
https://amzn.to/2Y1dX8Uという本に出会いました。

当時、ソニーでは全社横断の
キャリアマネジメントプロジェクトが進んでいました。
時代が変化し、会社がそれぞれの人材のポストを
用意できなくなってきたことから、全社的に
「社員に自分でキャリアを考えてもらおう」
という方向に舵取りをしていたのです。



 

“一人一人がワクワクして自分がやりたいことをやる”
という考え方をキャリアマネジメントに活かすため私は
ソース(source)のワークショップに参加しました。

 

その時のワークを通して2007年末ごろから
“独立”をおぼろげながら考え始めたのです。

 

その頃、「箱セミナー」のファシリテーターのトレーニングも受けていましたが
なかなか合格することができずいました。

 

仕事をやりながらだとなかなかトレーニングに集中できなかったこともあり、
会社を辞めてそこにかけてみたいと思ったのも退職を考えた理由の一つです。

その時は住宅ローンも残っていましたし、手元のお金は数百万円です。

 

退職後のことを考えると心もとない金額ではありましたが
“なんとかなるだろう”と楽観的に考えていました。

 

“「箱」に出会ってから自分に起きた変化をより多くの人にも体感してほしい“



 

という思いから独立を決断し2008年6月末
ソニーが最高益を出したのをきっかけに退職をしました。

 

「もう再就職しないとやばいかな」
独立してから顧問契約が取れるまで

 

独立するとすぐに仕事があるわけではなく、みるみる預金残高が減っていきます。

 

いかに自分の見通しが甘かったか、会社員時代に毎月の給料や
ボーナス時にそれなりのお金が入ってきていた状態がどれだけ恵まれていたか
ということを思い知ることになりました。

 

「箱セミナー」のファシリテーター育成トレーニングもうまくいっていませんでした。

一緒にトレーニングを受けた仲間はどんどんOKをもらっていく中で
私だけがなかなかOKが貰えないのです。

 

私はいわゆる大企業にいて、色々できるつもりでいたのに
どうしてOKが貰えないのか焦り、悩みました。

 

私は一生懸命伝えようとしているのに全然伝わらなくて、


陶山代表から
「かっこをつけるな」とフィードバックを受けながら
リハーサルを繰り返す日々が続いていたのです。

 

陶山代表からは
「セミナーの台本を読みながらでいいからやってみて」
と言われていたのですが、なんとまぁ、それができないのです。

私は“セミナー講師が台本読みながらなんてできない“という自分なりの、
“セミナーとはこういう風にやるべき”
という思いに縛られていたのです。

 

大企業に勤務していたプライドや価値観を中々手放すことができませんでした。

 

さらに
“台本の説明ではなくて、こういう風に言った方がよくわかるのでは?“
という思いがありました。


 

今だからわかりますが、陶山代表からもらった型は、
アメリカ本部の人が何度も繰り返して修練して作り上げたものを
陶山代表が学んで日本に持ち帰り、

 

彼が試行錯誤して一冊のノートにまとめ上げたものです。

 

よく守・破・離と言われますが、
私はまず、師の教えを忠実に再現する“守”ができていなかったのです。

 

型を忠実に再現するのではなく、自分流にアレンジしたことで
大事なポイントを外してしまっていたのでしょう。

 

そのことに気がついてから型を忠実に再現するようにしました。

 

そして、もう一つ私には課題がありました。
それは「自己開示ができない」ということです。

 

人には誰でも見せたくないところ隠したいところがありますが、
その本当のところに向き合わないと自分を変えていくことはできません。

 

まず講師である私から恥ずかしい失敗や経験を話していかないと
受講者の方が話したくないことを話してくれるわけがありません。

だけど、ここでも私のプライドが邪魔をして
なかなか自己開示をすることができなかったのです。

 

これらの課題を乗り越えてようやく陶山代表からOKがもらえたのです。

 

トレーニングを受け始めて1年以上経っていました。


 

ようやく「箱」セミナーのファシリテーター認定されたもののその喜びに
手放しで浸るわけにはいきません。

 

独立後2年経っても顧問契約が受注できていなかったからです。

 

預金も次第に底が見え始めてきました。

 

「箱」の仲間たちと九州で合宿をした時に
温泉に浸かりながら私がボソッと
「もう預金がなくなっちゃうんですよね〜」と言うと、

隣にいた陶山代表に
「えっ佐藤ちゃん、まだ預金があるの?」と驚かれました。

 

周りにいた社長さんたちからも
「それじゃぁ、佐藤さん、まだまだだね」
「借金してやっと一人前だよ」
言われて少し気が楽になりました。

 

とはいえ流石に借金はしたくなかったので
“これは再就職しないとやばいかな”
と追い詰められた時に、初の契約を受注することができたのです。


 

今思うと
預金があると自分の中でそこに甘えていた、
依存していたのかなと思います。

 

本当に預金が底をつくかつかないか
墜落するかしないかくらいで
やっと本気になったのだ
と感じていています。

 

その後、大企業の研修の仕事も取れるようになり、
少しずつ売り上げが立つようになりました。

 

福島 正伸氏との出会い

 

2009年、後に私のメンターとなる
自立型人材育成の専門家である福島 正伸氏の
セミナーに参加する機会がありました。

 

福島氏が言われていることは「箱」の概念と一緒で
すごく親和性が高く、自分が取り組んでいることに
「これでいいんだ」と確信を持つことができました。

そこで
2010年に福島氏の「究極のコンサルタント養成講座」
を受講したのです。

 

しかし福島氏が言われていることは
頭では理解できてもなかなか実践できず、
またしても悩んでしまいました。

 

悶々とする日々が続いていた時に仲間から
福島氏から少人数でガッツリ学べる講座に
誘われたのです。



 

すぐさま受講したい気持ちに駆られたのですが、
募集要項を見ると受講料がとても高額だったのです。

 

独立してまだ生活が安定してない時期だった私は
申し込みを躊躇しました。

 

1ヶ月半資料をカバンに入れたまま、
放置していましたが、
いよいよ明日が締め切りという日の夜、
諦めきれず妻に資料を見せて相談しました。

 

するとその場で妻が了承してくれたのです。

 

私がソニーを退職してから
事業が軌道に乗るまで3年くらいかかりましたので
妻はその間、不安に思うこともあったと
思いますが、私と共に耐えて
くれたことは有り難いと思っています。

 

福島氏と成長意欲の高い仲間のいる
環境に入ることができた私は飛躍的に成長でき、
投資額もしっかり回収できたので
この時決断したのは正解でした。

 

そして私は
福島氏が主宰する大人が本気で夢を語る
「ドリームプランプレゼンテーション」
に5年ドリームメンターとして関わりました。

 

*注
「ドリームプランプレゼンテーション」
とは新規事業の価値、あきらめない理由を
10分プレゼンし、聴衆に感動と共感を与えて
真の支援者を集めるプレゼンテーション。

 

ドリームメンターはプレゼンターに
困難を乗り越える勇気を与える支援のスペシャリストです。

 

ドリームメンターとしてプレゼンターに関わることで

 

相手をやる気にさせるには
自分の「あり方」が試されることを痛感しました。

 

自立型人材を育成するには
まず、私が自立型の人材であることが絶対条件です。

 

常に見本を見せ、相手を信頼し、
応援することを実践していきます。

 

プレゼンターを支援することで
私も人間的に大きく成長することができたと
感じています。

 

また、私のクライアントの社長にも
ドリームプランプレゼンテーションを見てもらうことで、

 

“諦めないで、できるまでやる”
という価値観を一致させていくことができました。

 

このクライアントの会社も
“絶対にいい会社になる”と信じて応援を続けたところ、

 

職場の人間関係が改善され、
社長と社員が同じ目標に向かって
一丸となって取り組むことができるように
変化していっています。

 

「自社の価値を落とさない」
クライアント企業の社員の成長

 

2016年に私は
キャッシュフローコーチ養成塾を受講しました。

 

お金の専門家ではない私がなぜ
経営のお金の勉強をしたのかというと、
自社のどんぶり経営を改善しようと思ったからです。

 

学んでみると和仁 達也氏のメソッドは
会社のお金の流れが
とてもわかりやすく理解できます。

「これをクライアントの社員さんに伝えるとお役に立てる!」
と閃き、学んだ翌月に早速クライアント先の社員研修で
売上と利益の関係についてお話しをさせて頂いたのです。

 

その中で、5%の値引きが会社の利益に
どれだけ影響を与えるのかを計算するワークをすると

 

今までお客様から迫られると
断りきれずに値引きをしてしまっていた
営業社員さんの顔色が変わりました。




 

値引きをすることで自社の価値を
落としていたことに気づいたのです。

 

この社員さんはこれ以降、お客様に堂々と価格を提示して
契約が取れるようになりました。

 

「これからも社長の話を聴き続けます」
2021年11月22日
キャッシュフローコーチ協会
MVPコンテストチャンピオン獲得!

 

和仁 達也氏が代表をしている
キャッシュフローコーチ協会は
安心・安全・ポジティブな環境が
整っていて、全国から成長意欲の高い
700名を超えるコンサルタントが集っています。

そして毎年11月には
その年に一番クライアントに貢献した
チャンピオンを決めるMVPコンテストが
東京の後楽園ホールで行われます。

 

どうして会場が後楽園ホールかというと、
和仁 達也氏が
「ビジネスに必要なことは全てプロレスから学んだ」
と言われるくらい大のプロレスファンであることから
プロレスの聖地、後楽園ホールで行われるのです。





私は今年、初めて「MVPコンテスト」にエントリーし
6名のファイナリストに選ばれました。

 

半年間準備を重ね、
11月22日にこれまでのクライアントとの関わり
私の想いを10分に込めてプレゼンさせて頂きました。




 

その結果、ありがたいことに
チャンピオンに選ばれたのです。




 

リングの上で表彰して頂きチャンピオンベルトと
大きなトロフィーを頂きました。




 

チャンピオンベルトには歴代のチャンピオンの名前が刻印されています。

そして先日、私の名前も
チャンピオンベルトに刻まれました。

先輩方から受け継いだベルトの重みを感じながら

私はこれからも
「クライアントの夢を自分の夢として
一緒にうれし涙を流すために」

社長の話を聴くことで
ビジョンの実現に貢献していく

覚悟を固めています。




 

資格
□アービンジャー公認ファシリテーター
□福島正伸認定自立方人材育成インストラクター
□(財)生涯学習開発財団 認定プロフェッショナルコーチ
□MBTI®️認定ユーザー
□産業カウンセラー
□キャリアコンサルタント
□日本キャッシュフローコーチ協会
認定キャッシュフローコーチ®️


研修・セミナー実績
□日本たばこ産業(株)
ソニーセミコンダクタマニュファクチャリング(株)
□パナソニック(株)
□協和発酵キリン(株)
□日本ATM (株)
□(株)野村総合研究所
□(株)マルハン
外資医療コンサルティング、大手印刷会社、大手造船会社、中堅IT関連会社、機械工作メーカーなど多数